本田宗一郎名言
人間に必要なのは困ることだ。絶体絶命に追いこまれたときに出る力が本当の力です。
人は、私の頭の中に創造力というバッテリーがつまっていて、次々にアイデアが飛び出すように思っているが、そんなことはない。四苦八苦の末の、いわば苦しまぎれの思いつきなのである。人並みはずれた好奇心と、努力と、反省のサイクルをフル回転させて、へとへとになりながらアイデアを見つけ出しているのが実情だ。
私は真似がいやだから、うちはうちの作り方でやろうということで苦労をしたわけである。しかし、かれらに追いつくまでに時間をかけて努力したことが、追いついてからののちの技術力の差になった。われわれは、最初から苦しむ方向をとったから、あとは楽になった。真似をして楽をしたものはその後に苦しむことになる。研究者として大事なところはそこだろうと、私はいまでも考えている。一度、真似をすると、永久に真似をしてゆくのである。
他の人が私の会社の真似をする頃には私は更に新しいアイディアによって次の進歩に移り得る自信がある。
私はあそこが似ている、ここが似ているといったものを作らない。世界中で考えていないものにいつも挑戦する。
日進月歩の世界では、今日の発明が明日の発明でなくなる。
アイデアなら可能性は無限だ。
経験が尊重されるためには、その人がその経験から、いつ、誰が、どこで考えても納得のできる正しい理論に裏づけられた知識を、学びとっていなければならない。
いつ、誰が、どこで受けとめても、なるほどと納得できる思想を持つか持たないか。この歴史と民族と地理を越えて受けいれることのできる哲学を持った企業や人は、天下を取ることができるのである。この妥当かつ普遍的な民族を越えた思想があれば、企業も必ず世界へ伸びるといってよい。
人間に必要なのは困ることだ。絶体絶命に追いこまれたときに出る力が本当の力です。
私は貧乏に育ったことを感謝している。これは虚勢や誇張ではない。若し裕福な坊ちゃん育ちであったら今日の私はなかった。
私は世間でいう『悪い子』に期待している。なぜかといえば、そういう子供こそ『個性の芽生え』を持つ頼もしい可能性に満ちたほんとうの意味の『いい子』なのである。オトナに『悪い子』といわれるのを恐れていないで、若者らしく勇気を持っていろんな経験をし、視野をひろげておくことが大切だ。
学校で教える知識は過去に属する知識であって学校で習ったことや本に書いてあることを、ただ覚えているということでは偉いともいえないし、それを使って、未来を開拓することもできない。
過去の蓄積が未来に役立てられるものでなければ、それは知っているという名のお荷物であり、極端にいうなら、その人の現在ならびに未来を毒する亡霊なのである。
教わったということは、あくまでも過去なんです。自分で知ったことはこれから未来へ通じる道なんですよ。
良品に国境はない
どんなに優れた工夫や発明でも、必要な時に提供されなければ何等の価値もない。
幸福は他人につくって貰うものではなく、自分でつくるものだ。
企業というものは、みんなが笑うところに、その妙味があるのであって、勝負のように勝った者が笑い、負けた人は泣く、というのじゃ困る。
見たり、聞いたり、試したり
牛の角だって耳の前にあるのか、後ろにあるのか即座に答えられりゃ専門家だよ。でも、その気になって牛を見てみろ、すぐに分からあ。こんなやさしいことを真面目にやるのも技術屋なんだ。
小学校四年頃、村に初めて動く車体が、青い煙を尻からポッポッと吹きながら通ったのである。私は、そのガソリンの匂いをかいだとき、気が遠くなるような気がした。普通の人のように、気持ちが悪くなってではない。胸がすうっとしてである。そのときのたまらない香りは幼い私の鼻を捉え、私はその日からまったく自動車の亡者みたいに、走るその後を追っかけまわした。金魚のふんだと笑われながら、自転車がすり切れる程、ペダルを踏み、自動車の後を追って、ガソリンの芳香をかぎ、悦に入っていた。
これからの日本の商品は、日本一というだけでは、ぜったい世界に通じない。世界一か、しからずんばほろびるか、どちらかである。
新しい大きな仕事の成功の際には、研究と努力の過程で九十九パーセントの失敗が積み重ねられている。
進歩とは反省の痛みの深さに正比例する。
失敗の理由をいくら考えても意味ないんですよ。それより次にどうすりゃいいかってことを考えることがいいんであってね
信用というものは、好かれること、約束を守ること、人に儲けさせてやることにつきる。
「あんなことは、オレにだってできる」といっても結局は早い者勝ちということになる。
“根性”というのは、観念的なものじゃないんだ。科学的な理論の上に成り立っているんだよ。